東京高等裁判所 昭和41年(う)2437号 判決 1968年12月16日
主文
原判決を破棄する。
被告人は無罪。
理由
<前略>
弁護人関藤次、同小林健治の控訴趣意について。
所論はいずれも、原判決が、本件被害者渡辺敏子を死亡させたのは被告人であると認定したことが事実を誤認したものであると主張し、特に関弁護人は、右事実誤認の重要なものとして、(一)渡辺敏子の死亡時期につき、原審鑑定人小林二郎の鑑定所見及び同上野正吉の鑑定等によれば、渡辺は食事後六時間以上を経過した後に死亡したものと認められるに拘らず、原判決は、渡辺が昭和三九年一一月二八日午後九時二〇分頃食事をした後、翌二九日午前零時三〇分頃死亡したものと認定したのは科学を無視した認定であること、(二)原判決が引用する塙昇の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書によれば、被告人は原判示のように久地岡館夫(原判決に辰夫とあるのは一件記録に徴し明らかな誤記と認める)方前丁字路付近で塙昇の運転する軽四輪自動車に乗せて貰い、高安自転車店前で右自動車を降りた時刻は午前零時一五分乃至二〇分頃であることが認められるから、同所より更に約一九分を要する被告人の自宅に帰つたのは午前零時四〇分頃となり、被告人の妻トヨの証言とも合致するに反し、原判示のように本件犯行が被告人の所為であるとすれば、前記高安自転車店前から友部小学校正門までの所要時間は徒歩で約九分かかり右正門から被告人の供述しているような方法により同校六年四組教室に至るにはさらに五分位を要するほか、同教室内で原判示の行動をするには、少くとも一〇分乃至一五分を要するものと推定されるので、午前一時前に帰宅することは不可能であつて、被告人が本件犯行をなす時間的余裕がないと認められること、(三)原判決は被告人の各供述調書の任意性、信憑性を肯定したが、被告人の取調に当つた司法警察員小口浩作、同早瀬四郎、同市毛俊二らの供述を過信したものと認められ、しかも被告人の右供述内容自体信憑性を欠くものと認められること、を挙げて原判決の事実誤認を主張し、小林弁護人は右関弁護人の論旨のほか、渡辺の着衣に付着した精液の血液型がおおむねA型と判断され、なお同女の腟内にA型の精液が存在していたことが証明されるから、血液型がAB型の被告人が本件の犯人でないことが科学的に証明されているものであつて、原判決には判決に影響を及ぼすことが明らかな事実の誤認があるから、原判決は破棄を免れないと主張する。
よつて以下順次右各論旨について審究するに、
第一渡辺敏子の死亡した時刻について。
(一) 原判示事実によれば、被告人は、昭和三九年一一月二八日午後五時頃渡辺敏子と水戸市内で会い、映画を見た後午後七時半過ぎ頃映画館を出て同市泉町中央ビル地下食堂で、酒を飲んだり、寿司を食べたりし、午後九時二〇分頃同食堂を出て、同市栄町の栄タクシー有限会社のタクシーで友部町大字中市原鈴木徹方前付近の道路で下車し、久地岡清一方北方約五〇メートルの裏山へ行つたりした後、同女とは別に友部小学校へ赴き、六年四組の教室内で原判示のような経緯方法により同女を窒息死亡させたというのである。
(二) 原審鑑定人小林二郎作成の鑑定書によれば、「渡辺敏子の胃内には食餌は全く残つていない、淡い茶褐色の粘液が粘膜についているだけで、粘膜にも著変なく、胃から腸管に至つて、十二指腸にも食餌なく、それより小腸を順次開いて検するに、回腸末端、盲腸より五〇センチメートル程度より若干便様の内容を見、大腸に至つて大便を認める」旨解剖所見の記載があつて、同鑑定人は「食餌の胃より大腸に移行する時間は、成書によれば三時間乃至九時間となつているから、本屍も摂食後その程度の時間を経過しているものと思われる」旨鑑定している。
(三) 原審鑑定人上野正吉作成の鑑定書によれば、渡辺敏子の摂食後死亡までの時間として、前記小林鑑定書の解剖所見並びに鑑定結果の記載を挙げたうえ、右記載によれば、胃、十二指腸に食物内容のなかつたことは確実とみられ、空、回腸の小腸部にも内容が少なかつたことは事実の如くである。また同鑑定書によると『胆嚢充盈』とあり、これは死亡当時空腹状態であつたことを示すものである。以上から食後の経過時間の詳細はともかく、死亡当時空腹状態であつたことは事実であつたとしなければならぬ。ここで時間の点はともかくとしたのは、当該食餌の量が明らかでなく、しかも食後死亡までの身体的、精神的状況が明らかでなかつたからである。しかし普通の食事をしてその後精神状態も略尋常で特に沈鬱状でなく、心配事もなく、しかも覚醒していて普通の起居状態をとつていた場合には、上記の胃腸内容の状況は食後六時間以上であるとしていい所見を示すものである。しかし食餌の種類により、また当該食餌をとつたとき著るしく空腹状態であつた等のときには、六時間以内ということもあり得るし、また精神的沈鬱或いは外傷などの場合にはこれより著るしく長時間の経過ということもあり得る。即ち小林鑑定人の下した『三時間乃至九時間』という推定は何ら不都合な点はなく、妥当なものである」と鑑定すると共に、同鑑定人が原審公判廷において供述するところによれば、渡辺が午後九時頃海苔巻をまるまる一人前食べたとすれば、それから三時間位しか経つていない時には空腸あたりに海苔が残つていなければならず、そうした所見のない小林鑑定書の胃腸内容の記載と合わないと考えられるが、普通白米は大体胃の中で偏平化され、水を含んで大きくなり、十二指腸に行く頃には粥状のどろどろした状態になり、小腸に行くころ米の形として見られることは殆んどなく、米がどの位でどこに行くかは判らないが、普通四八時間ぐらいで食べた物が肛門の末端まで行くから、下痢とか特別の場合は別として、その位の早さで通過するもので小腸だけ通過するのに三時間か四時間では絶対に不可能で、六時間以上一二時間ぐらいかかるだろうと思う。海苔巻の海苔は普通粘膜のしわにくつつき、相当長く残つているもので、完全に通過する下の限界を決めることはできないと思うが、普通の食餌の通過するスピードと大差はなく、小腸通過には一二時間以上かかる」というのである。もつとも同人は、渡辺敏子の小腸内容物を検査し海苔の残渣を認めた旨の浅野日出男の鑑定に関連しても質問を受け、「小林鑑定書には小腸内に内容があつたと記載してなく、廻腸末端盲腸より五〇センチ程度より若干便様のものが見えるとの記載のみであるが、これが事実と違うわけでございますね」と反問し、更に「摂食者がその後車に乗つたり、四、五〇分歩いたりすれば、精神的な影響ほどではないが、運動した方が腸を刺激し、早く通過することになる。普通午後九時に食事をすれば、その人は三〇分もすると、床に入るわけですが、この人は一二時まで起きていて、しかも歩いているということでは、昼間に近いことになり、十二指腸を通過し小腸の半ば上の方あたりに行つているわけになる。小林鑑定書の結論については、私の解釈では、小腸の中に全然内容がなく、大腸に至つて初めて内容があるように書いてあるが、これはちよつと有り得ないことで、我々なら小量ありと書くところじやないかと思う。小腸の中に海苔が相当残つているということならば、私の推量が当つているわけで、そうなれば場合により三時間から六時間というのがいいんじやないかと思う。」旨述べている。
(四) 茨城県警察本部刑事部鑑識課警察技師浅野日出男作成の昭和四〇年一月八日付第四〇六五号の二鑑定書によると、渡辺敏子の屍体より採取した小腸内容物につき顕微鏡検査を行うに、殆んど全部が海苔の残渣であることが認められる旨の記載がある。そして当審証人小林二郎の証言によれば、右小腸内容物を採取したのは、回腸の末端近くで、その前の方には内容がなく、初めて内容物が認められるところからこれを採取したことが認められる。
(五) 当審鑑定人宮内義之介作成の鑑定書によれば、「普通量の食餌をとり、胃内が空虚になるのは、特に不消化物は別とし、食後三―四時間といわれる。胃内に摂取された食物は、間もなく十二指腸内に進み、胃内の最後の食物が十二指腸に進む頃には、食物の先端は既に小腸中部迄達しており、一回の食餌は三―四時間の幅をもつて消化管内を進行する。従つて一回の食餌の先端と後端とが消化管の何処にあつたかを確かめた上でないと、食後の経過時間を推定することは不可能である。胃より小腸末端まで約七―八メートルを一般内容が到達するに約六時間を要するとされているが、解剖の結果によればそれより早いようである。本件の場合被害者は海苔巻と鉄火巻を一〇数個食べたといわれている。米飯粒、鮪肉片等は消化の早いもので、海苔は消化が悪いが、水に会うと極小片に分離し、胃の末端幽門を容易に通過するようになり、全部の食餌量は比較的小量なので、いずれも二―三時間で胃内を去つたものと推定される。このような種類の食物が小腸内に進行すると、比較的短時間のうちに原型を失い、淡黄白色のクリーム様内容となり、肉眼的にも顕微鏡的にも識別不可能となり、僅かに海苔の小片のみが顕微鏡的に見られる程度となる。このような性状を帯びた内容は、進行が比較的早く、その先端は約三―四時間で小腸末端に達すると推定される。小林鑑定人の検査では、盲腸より五〇センチメートルの小腸以下に腸内容を発見したというが、それが午後九時頃摂つた食餌の先端か後端か明らかでない、この食餌は海苔を除いては消化が早く、小腸下部に達するまでに相当量吸収されるから、小腸内における容量は少くなり、有形成分を欠くので、これを肉眼で観察しただけでは内容の進行状況を知ることは困難である。そこで海苔を顕微鏡的に発見したという盲腸付近の小腸内容が食餌の先端部に相当するとすれば、食後三―四時間前後であり、食餌内容の後端部に相当するものとすると、食後五―七時間前後であると概算される。従つて渡辺敏子の食後経過時間は、三―七時間の範囲にあるものと推定される。」というのである。
(六) 以上多少冗長を厭わず詳細に引用して来た各証拠についてさらに考察を加えると、原審鑑定人上野正吉が渡辺敏子の食後経過時間として小林鑑定人の三時間乃至九時間説を是認したのは、小腸内特に廻腸末端に至るまでは全然内容物がなく、大腸付近に至つて初めて内容があるということが元来有り得ないことで、小腸に海苔の残渣が相当認められることを前提にすれば死後三時間ということもあり得るとしているものと認められ、これに反して右海苔の残渣の存在していた小腸内容物を採取した場所が小腸の末端近くであるとすれば、六時間以上経過したものと認められるとしているものであつて、表現上多少の差はあるとしても、宮内鑑定人の鑑定結果と大差がないことに帰着するというべきである。ところで小林鑑定人が小腸内容物を採取したのは、盲腸より五〇センチメートルの廻腸の部分で、同鑑定人が便様の内容を初めて認めた場所からであることは前記説明のとおりである。そうとすれば、右の小腸内容物というのは、渡辺敏子が生前水戸市内中央ビル地下食堂で被告人と共に食べた海苔巻や鉄火巻が胃から十二指腸、空腸、回腸と順次進行していつたその先端部というよりも、寧ろ腸管内を進む食餌の後端部に相当すると認めるべきである。従つて前記上野鑑定人の供述によれば、右は食事後六時間以上を経過した状態のものであり、宮内鑑定人の鑑定に従えば五―七時間経過した状況のものであると認められる。
(七) 原判決は、前記のとおり渡辺敏子が被告人とともに昭和三九年一一月二八日午後七時半過ぎ映画館を出て中央ビル地下食堂において寿司などを食べ、午後九時二〇分頃右食堂を出たと認めているのであるから、その食時時間はおよそ午後八時前後より午後九時前後に跨るものとしていると認められるが、そうとすれば右食事終了時より翌二九日午前零時半頃まで約三時間半位しか経過していないこととなり、原判示の如く右食事後の運動量(但し上野鑑定人はこの運動量が消化促進にそれほど重要性があるものとは認めていないもののようである)を多少考量に入れるにしても、前記上野鑑定人や宮内鑑定人の死後経過時間として指摘するところとかなりの時間的ずれがあることが明らかであり、このことは渡辺敏子が二九日午前雰時半頃死亡したと認定するには、よしんば渡辺敏子が平素から著るしく小食であつて、被告人と同行した際食べた寿司の量がそれほど多くはなかつたかも知れず、また、同女の食事終了時間を前記の午後九時前後より多少くり上げることが考えられないことではないことなどを考慮してみても、なお合理的な疑いをすべて払拭し得るものとまでは認められない。
第二被告人の帰宅時刻その他渡辺敏子の死亡時刻(昭和三九年一一月二九日午前零時三〇分頃)前後の被告人の行動について。
(一) 塙昇の司法警察員並びに検察官に対する各供述調書中に塙昇が下市原の久地岡清一方前丁字略付近で被告人を乗せた時刻が昭和三九年一一月二九日午前零時五分ないし一〇分頃で、高安自転車店前で降したのが午前零時一五分か二〇分位であつたとの記載がある。しかし右久地岡清一方前付近より高安自転車店前までの距離は約2.5キロメートルであつてその間時速約三〇キロメートルで走つて所要時間が五分程度で高安自転車店前に達し得ることが認められ(当審検証調書参照)、塙昇が検察官に対する供述調書で述べているとおり時速四〇か四五キロメートル位で自動車を走らせたものであれば、その間五分を要しないことは明らかである。従つて被告人が高安自転車店前で下車した時刻は、午前零時一〇分頃乗車したとしても零時一五分より前のこととなり、午前零時五分頃乗車したとすれば、零時一〇分より遅く下車する筈がなかつたものと認められる。
(二) 原審証人福田トヨの、被告人が帰宅した時刻に関する供述は、まことにあいまいでにわかに信用できない。同女の右証言は、被告人が二九日午前零時三〇分頃かこれを少し廻つた時刻に帰宅したとの趣旨に帰するようであるが、時計をはつきり見た上での証言ではなく、被告人の帰宅を持ちながら炬燵の中で子供のズボンの繕いをしてからテレビのスイッチを切つた時間(その時天気予報らしき放送をしていたということであるが)と、被告人が帰宅後台所で手を洗つたり、妻トヨと佐藤先生の交通事故の話をしたりしてから、着替えをして炬燵に入つていた時間や、その後被告人が床に入り、次いで妻トヨが床に入ろうとして体を横にしながら、電気のスイッチに接続した紐を引つぱつて消そうとして、何気なく時計を見上げた時の柱時計の針の角度から被告人の帰宅した時刻を推算しているに過ぎないのみならず、当時その時計は一〇分位進んでいたというのであるから、被告人の帰宅時間に関する同証人の証言は漠然たる印象しか与えないし、殊に同女は前記の如く午前零時三〇分頃被告人が帰宅したと述べながら、他方検察官に対しては午前零時三〇分頃には就寝したと述べたことを原審公判廷で認めているである。帰宅時間と就寝時間との間には一〇分か一五分の開きがあると認められ、福田トヨが検察官に対し被告人の帰宅時間を前記のように述べていることは、被告人の帰宅がそれほど遅くはなかつたようにして被告人を庇い、あるいはその時間をあまり鮮明にしたくない態度の表現であると認められないではない。しかしそれはともかくとして、福田トヨの検察官に対する供述調書によれば、被告人は昭和三八年四月友部小学校に転任した後は、午後一一時より遅く帰宅したことが無かつたというのに、その夜は午前雰時を過ぎても帰宅しない被告人のことを心配しながら待ちわびていた妻トヨの心理として夫の帰宅時間が前記のようにあいまいであるのは、当裁判所のたやすく首肯し得ないところである。この点原審証人福田トヨの証言によつても右の疑問は消え去るべくもない。原判決が原審証人福田トヨの証言を採用しなかつたことは寧ろ当然のことといわなければならない。
(三) 所論は、原判決が本件犯行時刻を二九日午前零時三〇分頃と認定したことを非難しているのは、前記被告人の帰宅時間に関する原審証人福田トヨの証言を措信し得るものとの前提に立つものであるところ、右前提が採用し得ないこと前段説明のとおりであるから、犯行時刻に関する原判決の認定は、被告人の帰宅時間との関連に関する限り、直ちに事実を誤認したものであるとして非難し得るものではなく、論旨はたやすく採用し得ない。
第三渡辺敏子の腟及びその着衣より検出された精液について。
弁護人小林健治は、渡辺敏子が二八日午前四時頃血液型がB型の夫渡辺将作と性交し、同日夜一一時過ぎ久地岡清一方裏山で血液型がAB型の被告人と性交したから、同女のスカートにAB型の精液の付着が認められるところ、同女はその後更に約二粁の田舎道を歩いて友部小学校に行き、血液型がA型の男性と性交したもので、同女のスカートのA型の精液がこれを証明するが、B型の夫やAB型の被告人の精液は腟外に流出していて、死体にA型の精液のみが残つていたことは当然で、渡辺敏子は死亡直前に被告人以外の血液型がA型の第三の男性との性交後に死亡したことが明らかであると主張する。
(一) なるほど渡辺敏子の死亡当時着用していた格子縞スカートや、パンテイ及びズロースにも血液型がA型の濃厚な精液が付着していることが明らかである。しかも前記警察技師浅野日出男作成の昭和四〇年一月一一日付第四〇七六号鑑定書及び同人作成の同月八日付第四〇六五号の三鑑定書によれば、被告人の唾液による血液型はAB型で、渡辺敏子の夫渡辺将作の唾液による血液型はB型と判定されているから、被告人の精液はいわゆる分泌型のAS型で、将作のそれは同B型と認められる。然るに同女の着衣に前記のようにA型の精液が付着していることが認められる以上、同女はその生前、夫将作並びに被告人以外の、第三の男性と何らかの性的交渉があつたとの疑いが顕著であるといわなければならない。
(二) しかしながら、被告人が二八日の夜間、久地岡清一方の裏山において渡辺敏子と性交があつたことは、これを否定しなければならない。けだし原審鑑定人小林二郎作成の鑑定書によれば、渡辺敏子の腟及び子宮内粘液を検査し、精子の存在を証明し得られたに拘らず、科学警察研究所警察庁技官池本卯典及び前記浅野日出男両名の共同作成にかかる昭和四〇年一月二五日付鑑定書(警研収鑑第三四号)によると、右敏子の腟、子宮口、子宮内々容物はいずれもA型即ち敏子自身の血液型の反応を示しているのみで、もし敏子の腟及び子宮内容物が精液の混入したものであつてもAB型の反応を示していないからである。そして当審鑑定人宮内義之介作成の鑑定書によると、右の点は一層明白であつて「本件被害者の場合、二八日午前四時頃BS型(Sは分泌型であることを示すもので以下同様である。)の夫と性交があり、死亡したのが二〇時間以上経過したと考えられる二九日午前零時以後であるから、既に夫の精液の血液型判定可能の限界を過ぎていたものと推定され、鑑識課員が検査した時は、夫のBS型は証明不可能となり、腟液のAS型のみが証明されたものであろう」とし、さらに被告人との性交の有無につき「被告人と正常な性交を行つたとすると、その時期はもつとも長くみても被害者の死亡時期より三時間以内で、従つて死亡時には、被告人の精液の型物質は充分に被害者の腟内に保有されており、死亡後には殆んど変化されず腟内に残留するのであるから、その後の検査によつて被告人の精液ABS型は検出される筈である。従つて被害者と被告人の正常な性交は否定されるべきで、たとえ被害者が性交後三粁歩行したとしても、紙類で外陰部を清拭したとしても、この結論は変ることはない」ものとされている。
(三) 検察官は、弁護人小林健治の右の点に関する控訴趣意に対し、答弁として、AB型精液はA型膣液と混和すれば、全体がA型として認識されるとの医学上の法則があつて、被害者着用のスカートに付着している精液にはAB型の部分とA型の部分とがあるが、A型の部分はAB型精液がA型の膣液と混和した結果A型として認められたものの如く主張する。しかし生きている女性の体内に射精されたAB型精液が、二〇時間以上経過すれば、AB型物質を失つて、その血液型を判定することが不可能になるが、被服などに付着した精液の血液型は時間の経過により殆んど影響なく判定し得ると共に、他の血液型が混和してもAB型である特性を失うものでなく、また本件の被害者敏子が着用していたスカートに付着している精液にAB型の反応を示す部分があることは所論のとおりであるが、それはB型又はAB型の精液が付着したところに、A型の精液又は膣液が二重に付着した場合にも、その血液型はAB型を示すのであつて、AB型物質とA型物質が混和したからといつてA型の反応を示すことは絶無であることが前記鑑定人宮内義之介作成の鑑定書並びに当審証人宮内義之介の証言によつて明らかである。
(四) 前記浅野日出男作成の昭和四〇年一月二九日付第四〇九九号鑑定書によると、渡辺敏子が死亡当時着ていた格子縞スカートに血痕の付着を証明し得ず、精液の付着が認められ、その付着部分の血液型はA型と思料される箇所三か所(但しその中二か所は僅かAB型の傾向を有する)AB型と思料される箇所二か所、A型と思料されるが確定できない箇所一か所であり、前記池本、浅野両名作成の鑑定書によると、右スカートにはAB型の部位一か所、A型の部位二か所(同鑑定書の文面だけでは、果して右が精液の血液型を示したものかどうか明白ではないが、前記浅野日出男の鑑定書によつて認められる右スカートに血液の付着を証明し得なかつたことと相まつて、池本、浅野両名は精液の血液型を鑑定しているものと認める。)となつているのであるが、さらに当審鑑定人宮内義之介作成の鑑定書によれば、右スカートの精液の斑痕部六か所の中、五か所まではA型で残り一か所だけがAB型の反応を示したことが認められる。また浅野日出男作成の昭和四〇年一月八日付第四〇六五号鑑定書によれば、渡辺敏子が着用した毛糸製ズロースには人血の付着を認め、その血液型はA型と思料されるが確定し得ず、精液の付着は証明し得ないものとされ、同人作成の同日付第四〇六一号鑑定書によれば、渡辺敏子の着けていた白色パンテイに精液が付着しているが、その血液型はA型かO型若しくは他の型の非分泌型と思料されるとされており、前記宮内鑑定書によれば、白色パンテイには二か所、ズロースには一か所精液の付着が認められ、しかもその血液型はいずれもはつきりA型のものであることが認められる。以上認定の事実にさらに考察を加えると、渡辺敏子が死亡当時着ていた格子縞スカートに付着している精液の多くはA型であつて、AB型と認められるものは合計四か所に過ぎないのであるが、その一か所はスカート後部裏地中央の縫い目付近で、他の三か所はいずれもスカート裏地の左側縫い目付近に集つていることが認められるところ、右AB型の部分に近接した部分でもA型と判定されている箇所のあること、A型精液がスカート前部裏地やパンテイ、ズロースからも検出されているとおり広範囲に存在していることをも併せて考察すると、AB型と判定されているものも、B型の精液たとえば渡辺将作の精液付着部分にA型の精液が二重に付着していた結果、AB型と判定されるに至つたものとの疑いがないわけではなく従つてスカートの精液斑痕がAB型の反応を示したことから、それが真実AB型であつて被告人の血液型と同一であると即断することは相当でない。然るに右のA型精液が、いつ、どこで、どのようにして敏子のスカート等に広範囲に付着したのか本件では解明することができない。従つてそれは二八日夜半より前に付着していたとも認められるけれども、その反面二九日午前零時三〇分即ち被告人が敏子を死亡させたものとされている時刻以後において付着したとの可能性を全く否定し去ることはできない。
(五) 以上のとおりであるとすれば、被告人が渡辺敏子と二八日夜半性交したとの事実は否定されるにしても、同女の着衣にAB型と判定される精液が付着している事実から直ちにそれが被告人の血液型と同一であると断定することは困難であり、従つて右精液の血液型のみを採つてたやすく被告人が敏子を死亡させるに至つたとの原判示事実を裏付ける証拠と認めることはできない。
第四被告人の供述調書の任意性と信憑性について。
弁護人らは被告人の捜査官に対する供述調書には任意性がないと主張する。しかし記録を精査しても被告人の供述の任意性を疑わしめるほどの取調が行われたとは認められない。なるほど昭和三八年一二月二〇日以降被告人の取調官に対する供述は二転三転しているし、殊に同月二三日被告人が夜間友部小学校六年四組の教室において渡辺敏子と会い、同女が死亡するに至るまでの経過を供述した後、右の供述を全面的に否定するに至つたことも認められるが、本件のように捜査が難行した事件にあつては右の如き事例は稀有のことではなく、そのことだけから供述の任意性まで否定することはではない。その他被告人に対する取調べの時間が、被告人を緊急逮捕した一二月二〇日こそ多少遅くなつたことはあつたが、それ以降の取調時間が特に遅かつた事実は認められないし、被告人が司法警察員早瀬四郎、同小口浩作らから「責められた」として原審証人の同人らに質問しているところに徴しても、それは取調べる者と取調を受ける者との立場の相違から来る主観的な一面をことさら強調している如く窺われるのであるし(仮に取調官の追及が厳しかつたからといつて、被告人は笠間小学校の講演には出席していないのにことさら出席したようにしたりしていることもあつて疑惑の種を自ら蒔いているのであるから、必ずしも取調が不当であつたとはいえない。)時には被告人に対する家人から差入れられた果物を食べさせたことをもつて、被告人の歓心を買うために買い与えられたもののように言いがかりをつけたと見られるふしがないわけではないのであつて、いずれも供述の任意性までを疑うべき資料とはならない。しかしながらその信憑性については若干の疑問がないわけではなく、久地岡清一方裏山で友部小学校へ行く話が出たというのに学校のどこで会うのか決めていなかつたことは不審であり、その他本件当夜及びその後における被告人の行動について記録上かずかずの疑問の点がない訳ではないが、それは別としても、渡辺敏子の屍体の右第三肋骨から第六肋骨まで左上方から右下方へ斜めに骨折があつて相当の暴行を受けて死亡したのではないかと疑われる痕跡が看取せられるが、被告人の司法警察員に対する供述調書によると、右肋骨々折は、被告人が左手で渡辺敏子の喉を押え、右手を同女の頸部に押し当てて引きずり上げて接吻しようとしたところ、同女が重心を失つたような格好で倒れ、被告人もこれと重なつて倒れた際に生じたもののように述べられているのみである。しかし当審証人宮内義之介の証言に徴し明らかなとおり、前記肋骨々折は、右程度の、いわば情痴の果ての戯れの行為だけでは生じ難いものであると認めざるを得ない。加うるに被害者の死亡時期についての前記疑問や、また同女の着衣のA型精液に関する疑問についても、右供述調書は解明が十分でないかあるいはこれに全然触れてもいないのであつて、かれこれ考え併せると、その信憑力も検討の余地が少くないといわなければならない。
第五結論
以上説明してきたとおり、本件においては被害者の死亡時期について疑問があるし、その着衣の精液が被告人の血液型と同一であるか否かにつき必ずしも積極に断定することを許さないものがあつて、被告人の供述調書の信憑力さえ検討の余地を残していると認められる。被告人は原判示の如く、二八日午後笠間中学校における教育講演会に参加する予定であつたのに出席せず、同僚に出席したようにしてくれと依頼しておいて水戸市に赴きパチンコ店で遊んでから午後五時頃打合せどおり渡辺敏子と会い、共に映画をみたり食事をしたりした後、タクシーで友部町下市原部落まで帰つた事実があるのに、渡辺の屍体が発見された直後の捜査官による取調べに対しては、前記講演会に出席していたものと述べていたことなど、被告人が渡辺の生存を目撃している最後の人間であることを秘していたこと、ところが一二月二〇日になつてこの点を追及され、初めて真相を物語ると共に、裏山で渡辺と情交のあつたことを述べ、次いでこれを否定して友部小学校へ赴く約束があつたことまで述べ、更にこれを否定するなど、自己の行動を供述するのに二転三転していること、その信憑性に疑問は存するにしても、被告人は一旦は任意に、友部小学校内において渡辺を死に至らしめるまでの行動を司法警察員及び検察官に供述し、その偽装工作にまで及んでいること、被告人の帰宅時間に関する妻トヨの証言が漠然としていて真実性が疑われること及び原審において被告人が渡辺の金を取つているのではないかと疑われる点について検察官はその冒頭陳述中にこれを指摘し、かつその証拠を提出しているのに、これに対し被告人から何一つ反論もなされていないのみならず、当審における被告人の供述に徴しても、右の疑問が解明されたとはいい難いことなど、被告人にはなお本件犯行に関する疑惑が残つていないとはいえない。しかし原判決挙示の証拠によつては、被告人が渡辺敏子を死亡させたと断定するには未だその証明が十分であるとはいえないのであつて、当審における事実取調の結果を参酌しても同様の結論に到達せざるを得ない。然るに原判決は被告人が有罪であることを認定しているのは結局証拠の価値判断を誤り事実を誤認したものであつて、右の誤認は判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、検察官の控訴趣意(量刑不当)について判断するまでもなく、原判決は破棄を免れない。
よつて本件控訴は理由があるから、刑事訴訟法第三九七条第一項第三八二条に則り原判決を破棄し、本件は当裁判所において直ちに判決することができるものと認めから、同法第四〇〇条但書により次のとおり判決する。
本件公訴事実の要旨は、「被告人は昭和三九年一一月二九日午前零時三〇分頃自己の勤務先である茨城県西茨城郡友部町大字平町友部町立小学校六年四組教室において、同僚女教諭渡辺敏子(当三八年)の頸部を押えて同所を強く圧迫したまま立ち上り、同女を引きずり上げた為、同女をして頸部甲状軟骨部圧迫により窒息死亡するに至らしめたものである」というのであるが、前記説示のとおりその犯罪の証明が十分でないから刑事訴訟法第三三六条により被告人に対し無罪の言渡をなすべきものである。
よつて主文のとおり判決する。(松本勝夫 山岸薫一 藤野英一)
【参考・第一審判決】
(水戸地裁昭和四〇年(わ)第三号、傷害致死被告事件、同四一年六月二五日刑事部判決)
主文
被告人を懲戒三年に処する。
未決勾留日数中五〇〇日を右刑に算入する。
訴訟費用は全部被告人に負担させる。
理由
(罪となるべき事実)
被告人は昭和二八年三月茨城大学教育学部初等教育科を卒業し、教諭として同年四月から茨城県西茨城郡岩間町岩間第一小学校に就職し、翌二九年四月同町岩間第二小学校に転任し、その後昭和三八年四月同郡友部町大字平町一、四七〇番地の二〇二友部町立友部小学校に転任して、本件当時同校六年三組を担任していたものである。
たまたま昭和三九年一一月二八日(土曜日)午後零時頃被告人は更衣のため同校宿直室に入つていたところ、同校六年四組担任の教諭である渡辺敏子(当時三八年)が来合せ、同女から「話したいことがある」といわれたので、「夕方五時頃水戸市内の丸善パチンコ店前にいるからよかつたら来るように」といつて別れた。
そして同日午後同県笠間市笠間中学校において教育講演会が開催され、友部小学校の教諭は全員参加することになつていたのに、被告人はこれに出席せず水戸市に赴き、同市内のパチンコ店でパチンコ遊びをして午後五時頃同市南三の丸(現在同市宮町二丁目)大福パチンコ店前附近で右渡辺敏子と出会い、渡辺の誘いに従つて、近くの日活映画館で映画を観覧し、午後七時半過頃同映画館を出て、同市泉町の中央ビル地下の食堂で酒を飲んだり寿司等を食べたりし、午後九時二〇分頃同食堂を出たところ、渡辺から、親戚の結婚式が翌二九日行われるため同夜(二十八日夜)は実家である前記友部町大字下市原九六〇ノ一木村秋三方離れに泊ることになつているのでタクシーで帰るから一緒に送つてくれと言われ、これに応じて同日午後九時三二分頃水戸市栄町の栄タクシー有限会社からタクシーに乗車し、午後一〇時頃右友部町大字中市原鈴木徹方前附近で下車した。
そこから二人で手を組んで寄り添い、「今日は楽しかつた」等と言いながら徒歩で前記渡辺の実家の前の石門附近まで来たが、同所で渡辺は、自分を可愛がつてくれた兄は戦死し、又他の兄弟も鉄道事故で死んだこと、従つて自分の血のつながる兄弟は誰もいなくなつてしまつたので、運勢を占つてもらつたところ、この石の門が鬼門になつており自分は二二才か二三才までしか家にいられないと言われたので、泣く泣く今の夫のところへ嫁にきた、しかしその時実家や親戚では何一つ面倒を見てくれなかつた、といつたような右実家の石門にまつわる身上話をして、被告人に抱きついてきて、上に行こうと誘つたので、被告人は同女について同町大字下市原九五九番地久地岡清一方の北方約五〇メートル位の裏山に行き、同所で附近にあつた藁二束を敷いてその上に渡辺が仰向けに横たわり、被告人は右手で同女の陰部を弄んだ後情交を結ぼうとしたが、同女が「もつと良い場所で」と言つたので、情交を思い止まつた。そして、その辺りは上述の因縁話にまつわる土地なので友部小学校に行こうと言う話合になり、二人で裏山から降りて来たが、被告人は車が来たらそれに乗つて行こうと言つたのに対し、渡辺は自分は歩いて行く旨主張し、そのうち同女の姿が見えなくなり先に一人で歩いて学校に向つた様子なので、被告人は通行中の車を呼びとめて学校へ行こうと考え、附近を俳徊したり道に迷つたりした後同町大字下市原五二七番地久地岡辰夫方前丁字路付近で車を待ち、翌二九日午前零時五分乃至一〇分頃通りかかつた塙昇の運転する軽四輪自動車を呼び上めて乗車し、右丁字路から二粁位の同町大字南友部高安自転車店前で下車した。
被告人は、そこから徒歩で数分間を要する前記友部小学校正門に至り、正門から本校舎の横を南側に回つて新校舎西側昇降口に行つたが、同昇降口の捻込錠が締つていたので、巾七〇米位の校庭を横切つて本校舎北端の音楽室脇の入口の戸を開けて本校舎内に入り、職員室から新校舎西側昇降口及び六年四組の各鍵を取つてきて、右昇降口入口の捻込錠を開けて新校舎内に入り、直ぐ右脇にある六年四組の教室入口の捻込錠を開けて教室内に一歩踏み入れたところ、既に同教室内に来ていた渡辺から「わつ」と驚かされた。それから、渡辺に導かれて教室内に進み、二つ並べてあつた椅子に向き合つて腰かけ、お互に何で来たかと尋ね合つたりしたあと、同日午前零時半前頃二人して附近の机を左右に拡げて寝る場所を作り、そこに右渡辺が座布団を三枚位並べて敷き、その座布団の上に二人は向き合つて両膝をつき、腰を延ばし上半身を立てるようにして抱き合つた。その際渡辺が被告人に対し「道川先生(註、前に愛し合つた同僚から捨てられた女教師)の気持がよく判る」等と言つた後さらに「福田先生と関係しちやうとこれから先生を離すのがいやになる」とか「先生は女の人にもてるから気をつけて」とか「好きで好きで大好きだ」とか「私を捨てないで」等と執拗に同人に対する愛情を訴えたので、早く情交をすませて家に帰ろうと思つていた被告人は、同女の余りに執拗な愛情の要求を持て余し、「男は多情だから分らないよ」と冷たくあしらつたところ、更に同女が「先生はどんな人が好き」と聞いてきたので、被告人は「私の好きなタイプは女らしくてさつぱりした人で、例えば大谷先生のような人だ」と嫌味を言つたら、同女が被告人の両脇下を強くつねつてきたので、更に被告人が同女に「先生だつて好きな人あるんじやないか」と皮肉を言つたところ、それを言わせまいとして渡辺が右手で被告人の口を押えつけたので、被告人は尚も同女に「先生のことは良く知つてるよ」と男関係の噂があることをほのめかすや、いよいよ腹を立てた同女が被告人の右耳を左手で力一杯引張つたので、その痛さに被告人もカッとなり、左手で渡辺の喉を押え右手で同女の顔面附近を二、三回殴打したが、同女においてなおも被告人の耳を引張るのを止めないので、左手で同女の喉を押えたまま右手を同女の頸部に押し当て両手で同女の頸部を締め上げるような恰好で立ち上りながら引きずり上げ、そこで接吻しようとしたところ、同女は重心を失つたような恰好で後方に仰向けに倒れ、被告人は、咄嗟に倒れまいとして身を支えようとしたものの、結局その左手で同女の鼻口部を押すような恰好で重なるようにして倒れてしまつたが、前記の如くその両手で同女の頸部に加えた暴行のため、同女をして頸部甲状軟骨部圧迫によりその場において窒息死するに至らしめたものである。
(証拠の標目)<省略>
(弁護人及び被告人の主張に対する判断等)
弁護人及び被告人(以下単に弁護人らと略称する)は、本件公訴事実中、被告人が当日水戸市内で渡辺敏子に会い映画を観覧した後中央ビル地下の食堂で寿司等を飲食したこと、その後タクシーで茨城県西茨城郡友部町大字中市原の鈴木徹方附近まで行きそこから徒歩で久地岡清一方裏山まで行つたことはこれを認めるが、被告人は右裏山において渡辺と情交しその後同女と別れて塙昇の運転する自動車に乗せてもらい高安自転車店前で下車してその後自宅に帰つたので、本件犯行は全く被告人の関知しないところであると争うので、その論拠中特に重要な点等について以下に補足的な説明を加える。
(1) <省略>
(2) 弁護人らは「被告人はその夜、軽四輪車に便乗させて貰い二九日午前零時一五分頃高安自転車店前で下車し、その後徒歩で自宅に向い零時三五分乃至四〇分頃帰宅したものであつて、右帰宅時刻に関する妻の証言と合致する。然るに、捜査段階における被告人の自供の如く右下車後友部小学校へ行き渡辺と喧嘩して死に至らしめたものとすれば、右高安自転車店前から友部小学校正門前まで約一〇分かかり、それから六年四組の教室を覗き音楽教室脇の入口を通り職員室から鍵を持つて来て右六年四組の教室に入つたとすると少くとも五分かかり、それから会話その他を含めて犯行に至るまで一五分かかり、さらに偽装工作を行つたとすると五分を要するので、同校を立ち去つたのが零時五〇分、帰宅したのが一時二〇分頃ということになり、右は妻の証言と著しく相違するのみならず、本件犯行時を零時半頃となす検察官の主張とも喰い違うものであつて、寧ろ検察官が犯行時を右の如く設定することは自ら無罪を主張しているものと言える」旨主張する。
ところで、右主張は、証人福田トヨ(被告人の妻)の当公判廷における「寝むとき時計の針は直角を指していたような気がする。一二時五〇分位だと思う。そしてその当時時計は一〇分位進んでいた。被告人が帰宅してから寝るまでの時間は一〇分位だと思う」旨の供述が真実であることを前提としているところ、(1)右時計が進んでいた云々の点は同女の検察官に対する供述調書中においても述べられず突如として公判廷で供述されたものであること、(2)右公判廷における供述によれば被告人が帰宅した正しい時刻は計算上零時半ということになるが、右検察官に対する供述調書中の供述記載によれば、被告人は帰宅後一〇分か一五分してから寝み自分もそのあと直ぐ寝たがその時刻は自分の感じでは大体零時半頃ではないかと思うというのであつて、結局被告人の帰宅時刻は零時一五分乃至二〇分ということになり、さらに前記市毛俊二の証言によれば同人の取調に対し同女は右公判廷あるいは検察官に対する各供述と異る帰宅時刻を述べた形跡があり、この点に関する同女の供述はその都度変遷し、一貫したものがないこと、(3)同女の右検察官に対する供述調書あるいはその公判廷における供述によつても、同女は当夜時計を一度も確認したことはなく、被告人が帰宅した時も時計を見た訳ではなく、唯寝む時横になつて電灯を消そうとした時に時計が目に入り、長針と短針が重なつて居らず開いていたとか直角を指していたような気がするとかいうのであつて、極めて漠然たるものに過ぎないこと、(4)而も同女は本件の各公判期日に殆ど毎回出席し公開禁止の場合以外傍聴を続けていたものであつて、被告人の弁解の趣旨等をも十分理解していたものと思われ、それに吻合する供述を為し得る立場にあつたこと等を仔細に検討すると、同女の右公判廷における供述を以て被告人の帰宅時刻についての確定的な証拠とはなし難い。
のみならず、所論の高安自転車店前における下車の時刻も、同店から二粁位の判示久地岡辰夫方前丁字路付近で乗車した時刻が二九日午前零時五分頃であり同所から四〇粁乃至四五粁の時速で走行したとすれば(右時刻及び速度はいずれも前掲塙昇の検察官に対する供述調書による)、右乗車後三、四分経つた頃遅くとも零時一〇分頃になるという計算になり、さらに右高安自転車店前から友部小学校に至るまでの所要時間その他の各所要時間についての所論は、多かれ少かれいずれも過大に見積つている嫌があり(就中六年四組の教室内に入つてから犯行時迄の時間を一五分と見積りあるいは偽装工作の時間を五分と見積つていることは、その根拠に乏しい)、却つて、右高安自転車店前から友部小学校正門に至る徒歩所要時間に関する前掲司法警察員の昭和四〇年一月七日付捜査報告書(なお、右報告書に同日雪解けのため道路状況悪く普通の日より時間を要した旨の記載があること及び証人小口浩作は右所要時間を五分位と供述していること各参照)、前掲司法警察員の昭和三九年一二月五日付検証調書添付の第二図に記載されている各校舎間の距離或は廊下の長さ、前掲被告人の検察官に対する同年一二月二九日付A供述調書中校内に入つてからの同人の言動に関する供述記載等によつて時間関係を推算すれば、検察官主張の如く零半時頃に本件犯行が行われたという可能性も十分に存することが認められる。
右のような次第であるから、時間の点から本件犯行を否定しようとする右主張は、いずれの点から検討しても、これを採用することができない。
(3) 弁護人らは「被害者渡辺の死体を解剖した所見によれば、その胃の中には何ら食物はなく小腸の末端に海苔状のものが少量残存していたのであるが、食物が十二指腸を完全に通過する時間は六時間以上とされている。ところで渡辺が二八日午後九時頃寿司を食べたのが飲食物を摂つた最後であるから、結局その消化状況に照らすと少くとも食事後六時間を経過しており死亡推定時刻は二九日午前三時あるいは四時となるから、この点から言つても本件公訴事実は成立しない」旨主張する。
しかし、鑑定人上野正吉の当公判廷における供述に徴し、食物の消化状況は食物の性質、食物摂取者の健康状態、心理状態等によつて早くも遅くもなるものと認められるところ、小林二郎作成の鑑定書では所論のような解剖所見を前提としながら「本件死体は摂食後死亡に至るまで三時間ないし九時間を経過したもの」と結論し、右鑑定結果は上野正吉作成の鑑定書及び同人の当公判廷における供述によつても支持されているのであつて、所論の如く二八日午後九時頃寿司を食べたことを前提とすれば二九日午前零時半頃までには三時間半以上を経過していることになり、<証拠>を総合すれば、被害者渡辺は前述寿司を食べた後ハイヤーに乗る迄一〇分位歩き、ハイヤーで一七粁余を走行し、さらに一粁余を歩き、小さい裏山内に入つたりした後、二粁余の道を四〇分位歩いていることが認められ、右事実を考え合せると右消化作用はさらに若干促進されていることが窺われるので、右解剖所見は右死体の死亡時刻を二九日午前零時半頃と認めることと何ら矛盾するものではない。従つて、本件死体の解剖所見から直ちに死亡時刻を二九日午前三時あるいは四時と断定し延いて本件犯行を否定する右主張も亦到底採用することができない。
(4) 弁護人らは「被告人は久地岡清一方裏山で渡辺と性交を遂げ既に目的を達しているので、さらに友部小学校へ行く必要はなかつたし、行きもしなかつた」旨主張する。
ところで、右裏山における性交の有無についての被告人の供述以外の証拠資料としては、小林二郎作成の鑑定書に、「死体の膣内及び子宮内の粘液を調べた結果、精子は数視野中に一個程度しか発見されず、典型的の尾部を有するものは一例に過ぎない」との記載があり、さらに「従つて死亡直前の性交は否定して可なり」との結論を出している。
これに対し、鑑定人上野正吉作成の鑑定書によると「精子が顕微鏡下で数視野中に一個というのは、死亡直前の性交の例においても屡々経験するところであつて、決して少数に過ぎる数ではない、死亡前一二時間以上経過した性行為によるものとしては寧ろ異例のものであろう、……しかし膣内容ではなく、子宮頸管内の丁度都合のよい部分から採取されたものでは二十四時間以内という性交の場合において数視野に一箇ということも存在し得る場合もあろう、即ち死亡前一二時間乃至二四時間以内の性交によるものということを全く否定し去るわけにはいくまいが、それが大いに疑問であるということは言い得る」旨の記載があり、前記小林二郎鑑定書の断定に疑惑を投げかけている。
しかし、同鑑定人は当公判廷においては、自己の右鑑定書を補足的に説明し「右精子の数は性交者の精子の量や検査の仕方によつて沢山出たり一つしか出ないこともある、………性交後約二〇時間経つた後死亡し死亡後三八時間乃至四一時間経過した場合に精子が数視野に一箇という可能性はある、………私は、小林鑑定医の能力に色目を持つているので、数視野に一箇というのは死亡から余り隔つてない時間の性交の方が可能性が高いと受け取つたわけである、………二〇時間前に性交した場合もあり得るし、一時間前に性交した場合も人によつてあり得る、結局断定的なことは言えないと思う、だから私の色目を取り去つて了えば、夫との関係によつて残つたのがここに出ているとされても、私は何も文句は言えない」旨供述しており、而も他方証人渡辺将作の供述によれば、渡辺敏子は夫将作との間に判示一一月二八日午前四時頃性交を行つたことが認められるのであつて、これらを考え合せると、結局、右「顕微鏡下数視野中に精子一個」があつたということは、被告人が所論の如く久地岡清一方裏山で渡辺敏子と性交をしたかどうかを左右何れかに決定づけるものではない。
而して、むしろ、所論の如く右裏山で性交が済んでいるとすれば、却つて証拠上明らかなとおり渡辺が被告人と別れた後深夜女の身ひとりで二粁以上離れた友部小学校に赴いた事情を説明することができなくなるのであつて、判示認定の様に被告人は右裏山で渡辺との性交を遂げていなかつたとみるのが、証拠上認められる前後の状況に照らし相当であると考える。
従つて右裏山での性交を前提とし本件犯行を否定しようとする右主張も亦採用することができない。
以上縷説したように、被告人の司法警察員及び検察官に対する自白は、何ら任意性を欠くものではなく、又他の証拠や客観的事実と喰違うこともないのであつて、その内容が極めて具体的切実さを帯びていることと相俟ち概ねこれを信用するに足り、右に対比し、被告人の当公判廷における供述は、とかく謙虚を欠きあるいは虚勢を張りあるいは徒らに他人の非を鳴らそうとする態度が見受けられるのであつて、その内容においても裁判所の心証に迫つて来るものがないので、結局当裁判所としては右自白等前記標目を掲げた各証拠により判示「罪となるべき事実」を認定した次第である。
<以下略>